量産型に戻る日
いったいなにの量産型かというと、就活生である。
なんと私は今年、再びあの悪夢のような就活に挑むのだ。
たいへん勝率は低いが、自分の生活を変えるため、無職を脱出するために挑む。
量産型が指しているのは、その就活生の特徴である「黒髪」である。
つい先日まで私の髪は茶色だった。
その性質は両親より受け継ぎし、剛毛・多毛・くせ毛、etc…を持ち、美容室に行こうものなら、その店で一番腕のいい店員さんが対応にあたるというとんでもヘアーである。
1本の毛から枝毛が3本も5本も取れるというと、その凄まじさをおわかりいただけるだろうか。
それゆえ地毛の黒髪だと、重く見えるし、歳相応に見られないしという、デメリットしか出てこない。
なのに先日黒に戻したのは、就活を控えているからだ。
就活の暗黙のマナーとして、アパレル以外は黒髪みたいなものがある。
正直そんなのクソくらえと思っているが、現実では世の流れに身を任せる力ない人間なので、おとなしくそれに従った。
日本人が黒髪以外が普通にうまれてくる国なら、こんなルールは産まれなかっただろうな。
そう思いつつ、早く茶髪に戻すためにも就活をがんばるのである。
思い出すたびに就活への苛立ちばかりが浮かぶので、今度就活で辛酸を舐めた思い出や就活ビジネスへの非難をかこうとおもった。
青春の一冊、読書の扉を開く
特別お題「青春の一冊」 with P+D MAGAZINE
私の「青春の1冊」はたくさんある。
どの本も、読むことで私にたくさんの世界を、可能性を、夢を見せてくれた。
実益的な方面でいうと、読解力や速読力、漢字の力を伸ばしてくれた。
ただ、その中から1冊だけをと言われたら、「ハリーポッターと賢者の石」を挙げる。
なにせこの本は、私の読書世界をグンと押し広げたからだ。
小学校1年生のある夕方に、母からこの本を与えられた。
この時、クラスメイトに比べれば学級文庫の本や図書室の本を読んではいたが、まだまだ「かいけつゾロリシリーズ」や、ジブリのアニメーションブックを読んでいた私にとって、ハリーポッターはあまりにも分厚く、あまりにも字が詰まっていた。
うわ~むずかしそう。
しかしおもしろいらしいと聞いて、おずおず読んでみると、気づけば夜の9時、就寝時間がやってきていた。
読んでいるうちにおもしろすぎて時間が吹き飛んだのである。
その当時、私は主人公三人組がトロールに襲われるところまでしか読めなかった。
楽しさの余韻で続きにワクワクする反面、まだたくさん残っているのに読めない悔しさがあふれた。
そして、なるべく早く、正確に、与えられたその日のうちに読んでしまえるように力をつけた次第である。
ふりがながふっていて読めるけど難しいことばも調べたりした。
というわけで、なかなか結構な国語力がたぶん身につき、分厚い本にむしろワクワクするタイプの人間へと成長を遂げたのだ。
本当にハリーポッターには、内容への感想はさておき、扉を開いてくれたことへの感謝でいっぱいである。
ちなみに青春の終わりかけ、大人になってからは、
ジェームズ・ロリンズ「シグマフォースシリーズ」
森見登美彦「有頂天家族シリーズ」
この3冊と衝撃的な出会いを果たした。
厚さの耐性がなければ出会わなかったであろう。
成人向け漫画のバナー広告が嫌になったぞ!
タイトル通りだが、成人向け漫画のバナー広告が嫌になってしまった。
筆者が成人向け作品が苦手というわけではない。
むしろ仕事柄よく見るから耐性もあるし、オッこれはいいなと思うことだってある。
それなのに、である。 \ナンテコッター/
さて、問題のバナー広告たちだが、成人向け修正はばっちりされている。
その手の業界の人間曰く、コンビニで売っている成人向け漫画が商業誌の現状いけるラインだそうなので、露出した胸部を覆っている点では雑誌以上の規制だ。
しかし人が動いたり続きの場面が展開されることにより、「あ、成人向け行為してますな~」となる。
最近これが多すぎるように感じる。これでいいのだろうか。
成人向けの、例えば漫画だが、コンビニに陳列されているものや、ネットで展示されているものなども、ある程度ゾーニングはできていると思う。
ほしいと思わなければ、目の前に入ることがなかったり、一瞬で通りすぎていく。
しかし今回のバナー広告はどうだろう。
確かに、うわっ!と思ったら端末の画面をスクロールすれば見えなくなるかもしれない。
けど、実店舗に置いているものより、高頻度で遭遇してしまう。
最近児ポや青少年保護育成条例などがニュースで議論を呼ぶことが多いが、どうして思わず目を逸らしてしまいそうな過激な作品の広告は規制されないのだろう。
具体的な例をあげる。
父子で近親相姦をしていて子供である娘はボロボロになってしまい…といった漫画と、少年たちに襲われている妙齢の女性の漫画、女子高生が中年男性にレイプされる漫画を最近よく見かける。
以前は2人の少女が遊郭に売られ、過酷な環境の中で生き、そして死ぬ、みたいな漫画もよく出ていた。
別に発表されるのは問題ないし、そういう作品を見て、考えたり感動したりする人がいるのだって問題ない。
筆者自身、その作品を最後までしっかり見れば、感動したり、考えたり、すごいと思ったり…と、なにかしら影響を受けるはずだ。
それに表現の自由は守られるべきだ。
しかし「人を選ぶ内容の、本来規制が入りかねない内容」が万人が高頻度で見てしまう、見せられてしまう環境はダメだと思う。
先述した業界の人間曰く、最近では未成年相手に性行為等に至っているような漫画は出しづらいし危険な雰囲気があるそうなのにも関わらず、なぜこのような広告がのさばっているのか理解できない。
それに結果的に、実は良作なのにバナー広告で極端なシーンを抜き出されたがためにヘイトがたまり、見られなくなる可能性はなくはないだろうか?
とはいっても、作品の善し悪しを法で縛ったり、国やらなんやらの監査が入ると、表現の自由や創作活動が停滞してしまったり、普通とはなにか?などの哲学や倫理の問題にまで延々と繋がるので、すぐ規制しろ!とは言えないのだが、なにかしらルールは設けるべきであると思う。
それに広告は会社の収入源だし、なくしてしまうとどこかの会社の経営がきつくなるかもしれない。
難しいね。
先日、筆者の母が携帯を見ていると、「うわー」と声をあげた。
どうしたと尋ねると、「エロ漫画の広告が鬱陶しい、何回も出てくる」と返ってきた。
成人向け漫画のバナーを出すときは、どうか、その広告がネット慣れかつサブカル慣れしていて、成人向けものにも耐性のある人間以外もネット利用していることを忘れないでほしい。
とりあえず、今度どこか対応してくれる期間に著者は通報しようと思う。
考察:「キンプリ」中毒者が多発する謎をガチで追う
最近ツイッターのTLで「キンプリ」なるものに中毒になっている人が多発している。
どうやら「KING OF PRISM」という、プリティーリズムレインボーライブという女児向けアニメの番外編タイトルらしい。
ことごとく視聴の感想がまともな日本語や具体的な感想の体をなしておらず、また、だいたいの視聴者が初見で身体が吹き飛ぶような錯覚や宇宙に漂っている感覚になるらしい。
視聴後は座席から立つことが難しく、最終的に「キンプリはいいぞ」としか主に発言しなくなり、スピンオフ元であるプリティーリズムシリーズを推してくる始末である。
これは由々しき事態だ。
というわけで筆者は友人のプリズムヤクザプリズムエリート(既に何度も視聴済み)とともに、アマゾンの奥地にならぬ、映画館へと向かった。
主に応援上映について触れます。
ネタバレを気にする人とキンプリ未視聴者は見ないほうがよいです。
また今回わりとガチで書いて長くなったので、結論だけ青字にしてます。
目次
実際行ってみた
おそろしいポイント1:冒頭ツッコミとアフレコ
おそろしいポイント2:定番あります
おそろしいポイント3:完成させる魔力-1
おそろしいポイント4:完成させる魔力-2
おそろしいポイント5:投票
おわりに
◆実際行ってみた
まず結果だが、筆者はなんとか、言語能力を失わずに帰宅することができた。
帰宅してしばらくして思ったことが1つある。
なんという、おそろしい映画だろうか!!!
というわけで次からそのおそろしさについて語る。
ちなみに視聴後は30秒ほど呆然として立ち上がれず、今でも頭の中で「EZ DO DANCE」がリフレインしている。
◆おそろしいポイント1:冒頭ツッコミとアフレコ
まず冒頭だが、キンプリ主人公の先輩たち、プロのプリズムスタァのライブから始まる。
華やかな技が繰り広げられ、なぜか展開は先輩たちそれぞれと、モブの女の子がニケツしているシーンが展開される。
そういうアトモスフィアを先輩たちは表現していて、かつ作中の観客たちは味わっているということなのだろう。
さて、そこで行われるイチャイチャ行為が、どう考えたって危ないし、やばい。
しかもモブの女の子のセリフを、応援上映では観客がアフレコできるようになっている。
どういうことだってばよ…。
話を戻すが、この流れがおそろしいポイントである。
まず最初に、作品にツッコむという行為によって、強制的に作品に足を踏み込ませる。
これはよくあるきっかけ作りの初歩的な手段なのだが、強力な効果を発揮しているのは次のアフレコだ。
通常上映では前述した効果をさらに持続させるだけに留まるが、応援上映は別である。
視聴者を、冒頭10分も経たないうちに作品に、完全に取り込んでしまうのだ。
視聴者が声を吹き込むことで、視聴者は声優となり、ストーリーの登場人物となる。
映画館の中にいるのではなく、時には製作陣に、ストーリーのモブに、時にはストーリーの中の空気だったり天の目だったりに成るのだ。
似ているものは、最近リメイクされた「ポケットモンスター」赤緑青ピカチュウ。
オーキド博士のレッツゴー!の言葉と一緒に、主人公である私たちは2頭身の姿へ転じて、ポケモンの世界へ入り込む演出がきっちりある。あれと同じだ。
別世界のモノに成るという行為は、宗教でいうと、昔の巫女さんが神おろしをしてお告げを云々という行為と似ている。
詳しく話すとなが〜くなるので、とてつもなく強力で、科学が発展しない場合フツーにウン百年も続くものすごい行為だと思ってくれればいい。
ほんとうに、ツッコみと、アフレコによる完全な取り込みという段階的かつ強力な作品移入を、冒頭からブチ込むとはおそろしいアニメである。
しかもアフレコ字幕がないところでも、アフレコできる箇所がプリズムエリートたちによって発掘され、伝播するのだからとんでもない。
製作陣に宗教とか心理学勉強してる人がいるんじゃないか…?と疑うレベルでやばい。
◆おそろしいポイント2:定番あります
先日の「おそ松さん」記事でも語った、オタクがハマる定番レシピが、キンプリにおいてもしっかり使われている。
これについては先日の記事を見てほしい。
考察:「おそ松さん」から、同人に疲れる女たち - それでもオタクやめない
◆おそろしいポイント3:完成させる魔力-1
「おそ松さん」記事でも少し触れたが、未完成なものを完成させることで人間は快感を得る。
そんな快感が終始降り注ぐのがキンプリだ。
前述したアフレコもそうだったが、観客が声援を送ることで映画がより完成していくのかおそろしいポイントその2である。
そもそも登場人物の1人である、太刀花ユキノジョウがやっている歌舞伎などは、観客の声援によって完成に近づく典型例である。
\よっ、国立屋!/ ※動画48秒あたり参照 他のアフレコシーンも見れる
しかもそれだけではない。
声援という共同・共有作業によって、さらに人々は安心感を得る。
人は誰かと同じことをすることで安心する生き物であり、この部分を満たしているといえる。
加えて、この共同・共有作業はSNS上でも行われるので、とんでもない規模を持っているのだ。
おそろしいことである。
さらに。
人と同じことばかりし続けると、人はどうしてか不満を持つに至る。
それをもキンプリは解消してみせた。
応援上映ではみんなと同じ声援を送ることがほとんどだが、自分が考えた新たな声援を言ったっていいのだ。
この3つの要素が成立しているものはなかなかない。
マジもんの宗教や演劇(テニミュなんかも含む)もこれにあたるが、アニメではなかなか見られないことだった。
キンプリは新たなアニメの新境地を開いたとおもう。
見てないけど映画のガルパンもきっとそんなかんじなのだろう。
◆おそろしいポイント4:完成させる魔力-2
長くなるので分けたが、こちらは主人公や仲間たちの成長というポイントから見る。
短い上映時間なので省かれ気味ではあったが、それでも主人公たちや先輩たちが、新しいステップへ踏み出し、成長しようとしているのは作品から伝わってくる。
古来よりというわけではないが、主人公成長モノにも未完成の魔力が潜んでいて、キンプリでは主人公の一条シンが映画最後にプリズムショーを魅せてくれるところがとりあえずの今作の完成ポイントだろう。
また、先輩たちのユニット、Over the Rainbow が解散するシーンもその1つにあげられるだろう。
完成したあとの、さらに完成を目指す物語はいつも人を惹きつけてやまない。
◆投票
映画が終わった、現実に戻らねば。
しかしキンプリは我々をそうたやすく逃がしてくれない。
入館時に渡されるプリズムキングカップの投票があるからだ。
現実にいながら、投票のために再びキンプリ世界の住人に成ってしまうのだ。
このことによって、さらにキンプリを引きずってしまうというか、日常と非日常の境目がそこだけ曖昧になってしまう。
もちろんこの投票や売り上げに続編がかかっているので、上記の理由だけとは言わない。
しかしながら劇場を出たあともプリズムの煌めきを容赦なくブチ込んでくる体制には、もはや畏敬の念を抱かずにはいられない。
◆おわりに
この筆者が語る話は、だいたい哲学や心理学、宗教を勉強した時に得た知識だ。
これらの学問というのは、だいたいが自己との語り合いであったり、誰かとの語り合いであったりする。
それらは場合にもよるのだが、心を安定させるためのものという意味合いが強い。
キンプリは心のマッサージだと誰かが言っているのを見かけたが、まさにその通りだと筆者はおもう。
残念ながら筆者は芸能界にまったく興味を抱けない人間なので、そこまでプリズム中毒にはならなかったし、世界が輝いているようにも見えない。
しかし頭の中は未だEZ DO DANCEだし、キンプリのことを考えると少し気分がよくなる。
だから最後に一言。
キンプリはいいぞ。
だって続きみたいんだよ。みんな推したい。
マンガとドラマの軋轢、実写化のひっかかりについて
最近多くなっている、マンガ実写化の問題について個人的な感想をかく。
本日スマホをふと除くと、萩尾望都作「ポーの一族」を原案とした新作ドラマが、SMAPの香取慎吾を主役としてスタートすると話題になっていた。
「ポーの一族」のあらすじと絵柄を知っているだけだし、原案と銘打ってあるので原作ストーリーと話が違っていてもしょうがないが、さまざまな部分に違和感を覚えた。
<原案>というところ
「原作」から名称や設定を借りているだけでも、原作に対するリスペクトや、これを活かしたおもしろさを見せてくれれば問題ないとかんじている。
しかし最近のマンガ原作ドラマはこういう部分を軽視してるように見受けられるところが多いので、なんだか安心できない。
テレビ局の関係者の皆様にはぜひがんばっていただきたい。
キャスティング
筆者は芸能界のことに全くといっていいほど興味がまるでない。
だれが結婚しようが離婚しようが、容姿がよかろうが、結局は同じ人間だろうと思っている。
なので売れている俳優や、これから推していく俳優をキャスティングされるより、より上手に演じてくれる俳優を作品に求めている。
もちろん前者の俳優を起用するなとは言わないが、やる気のない大根役者は多用するなといいたい。
こういうところがひっかかっているのだと思う。
すべての作品がこの問題をクリアして良作である必要はないけれども。